自然は誰のもの

平成27年7月5日
   森の駅推進協議会 代表幹事 岡本守生

 日本は、古代から、神様のものである自然や、神様そのものである自然と共生する智恵を持っていました。
自然は、公の中でも特別な存在で、当時の社会システム全体を管理する仕組みで、自然の利用も上手く行っていたようです。
その時代は、じねんと呼んでいました。
natureを自然と訳したことで、しぜんと呼ぶようになったそうです。

 しかし、利便性や効率を追求する文明の名のもとに、自然の持つ経済的な資源を専ら私しする人々が現れ、森や海を変えて行きました。
そこで、自然の持つ資源について改めて考えてみますと、次のように思います。
生物的資源、観光的資源、経済的資源等があり、経済的資源に就いては公私があります。
一方で、環境的な存在、健康的な存在、文化的な存在、宗教的な存在、でもあります。
ここでは、「自然は、皆のものであり、私のもの」なのです。
森や海は、これらがバランス良くあることで、本来の自然らしさを保って来たように思えます。

環境問題が起こったのは、この中の「経済的資源」の「私的な」部分が強力になり、無制限に肥大化し、他の資源や、皆なのものの各種の「存在」を無視するかのごとくバランスを崩したからです。
しかも、皆がするから自分もする、と言った公私の区別がつかない悪循環に陥っています。

西洋では、人間を中心に凝らした、神様―人間―自然に近いヒエラルキーが、人間による自然支配を許して来ました。
例えば、レバノン杉の歴史は、古代の文明の究極の姿です。

今日も、地球自然の明日や明後日のことを考えることなく、文明の為に、更に言えば、利益の為に、森や川・海の環境を壊し、都合良く利用されているのです。
生き物の母なる海も森もその重みに耐えられなくて、「文明よ、もう結構」、と呻めいていることでしょう。

特に、地球の歴史から見れば一瞬でしかないこの一世紀の間に、野心と過度な経済的な活動で、新しい多くの化学的物質(一部薬剤)を生み出しましたが、その多くが安全性の確認に乏しく、殆どがその最終処分方法の提示もないままでした。
その結果、天地で多くの汚染を重ね、多くの生物資源を減少・死滅させました。俗に言う公害です。
更に、人間の衣食住にも不自然・非自然が及び、多くの人から健康を奪いました。

一方、日本では、神様―自然―人間、が根底にあります。
神道は、宗教というよりは、自然と付合う際の、共生する智恵として、作法として、存在してきたように思います。
過度にバランスを崩すと、山の神や海神のたたりとして自然からの戒めを受けました。
こうした自然との共生についての智恵なり作法は、文化として、広く全ての自然に及びました。  
人間中心の欧米の思想と異なって、人間も自然の一員であることを自覚していたのです。
然し、この一世紀、欧米に倣って文明の虜になり、先進公害国になりました。残念です。
 
遠い温故知新ではなく、この半世紀強を振り返り、自然や文化に再び焦点を当て、自然の持つ力を再発見し、安心・安全な選択をする姿勢が今求められていると言えるでしょう。