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「森の駅発」メルマガ 第61号 ☆彡
=第21回森の駅発市民フォーラム 講演録 & 連載 山小屋通信-4=
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★第21回市民フォーラム(7月14日)WISE WISE 佐藤社長 講演報告
★好評連載「山小屋通信」4回目。テーマ「先人の生活の名残り」。
第22回市民フォーラム「天然杉が脳の疲れを休息に回復させる」
(9月8日 九州大学清水先生)は、お陰様で満員御礼となりました。
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第21回森の駅市民フォーラム 講演録 2015年7月14日 18:30~
テーマ/国産材を活かした家具作りで業績回復
講師/(株)ワイス・ワイス 佐藤岳利社長
内容/以下市民フォーラム委員口述筆記より
今日のお話は、私の失敗談が多く生々しい数字も出てきますが、西村さんや
市川さんに日頃お世話になっているので、皆さんのお役に立てればと思い、
日頃は出さない話も出して、盛り沢山という感じでお話ししたいと思います。
生い立ちから話に入りますが、生まれは群馬県渋川市です。
そのため赤城山・榛名山・谷川岳の自然に慣れ親しみながら育ちました。
いつもドングリを拾ってはポケットに入れ、トカゲ・ドジョウ・カブトムシ
などを家に持って帰っては、母親に怒られた思い出があります。
しかし小学校3年生の時に父親の仕事の関係で成田のニュータウンに転居、
コンクリートのマンションが次々と建っていくのを眼のあたりにしました。
この幼少体験から、成長してから自分の生き方や生活に、何か欠落したもの
があるのでは?と探すことになったのではないかと思います。
若いころはスキー場やテニス合宿の行われる高原で働くなど、いつも旅を
していました。アメリカで1年間放浪の旅をしたこともあります。
アメリカ旅行では荷物を盗まれ、新聞のPolice reportを利用
(タイトル「可哀そうな日本人」)掲載してもらい、乗り切りました。
大手の空間デザイン会社(乃村工藝社)に就職後は、香港の日系ホテル建設
や上海の銀行なども手掛けました。
その体験では、現場作業員が全員上半身裸だったり、足場が竹製だったり、
ラッカーを吹いているところで喫煙していたり、いろいろ見てきました。
バンコクでもだいたいが上半身裸の職人を使う仕事でした。
そのうち、だんだんと何だか体調が悪くなっていったのです。
27~28才位ですがシンガポールに赴任した頃に、特に精神的なバランス
を崩してしまいました。
その頃インドネシアの未開発地に住む民族の村を訪れる機会がありました。
この村では織(かすり織)の文化、文様の文化(鳥の文様や部族の文様など)
に出会って魅了され、すっかりはまり込んでしまいました。
未開と思っていたのに、素晴らしい伝統文化を持っている人々。
それに比べ、シンガポールでプール付の家に住みながら精神をやられた人間
は幸せなのだろうか、と感じたのです。
そうこうしているうちに、スンバ島という島の酋長に、娘の婿にならないか
と言われました。それもいいかな、と一瞬思いました。
しかし、夜泊めてもらっている時に「これはちがう」と思い断りました。
自分ひとりがこの島で満足するのではなく、日本に帰ってこの幸せ感を広く
紹介すべきだと思ったのです。
そして、30歳で日本に帰国することになり、本社勤務を命じられました。
日本に帰ってからは、毎週休みに温泉などに出かけるようになりました。
良いと言われる秘湯をしらみつぶしに、狂ったように訪れました。
その中で、日本には土地々々に様々な文化が残っており、いろいろなお酒!
もあることを知りました。
しかし地方は疲弊してしまっており、困っていることも実感しました。
こんな美しい文化を持った人々を助けることができないだろうか…と思い、
そして32歳で会社を辞めて独立したわけです。
独立してからは、東京のクリスチャンディオールのお店の裏手に家具の会社
を立ち上げ、東京ミッドタウンのサントリー美術館入口右側にも、現在出店
(伝統工芸品のショップ)しています。
オリジナル家具(モダン)、商業施設(ホテルや沖縄サミット晩餐会会場等)
をはじめ、GUCCIの指定業者になり(現在終了)、ゼックス(XEX)代官山
などの物件を手がけてきました。
創業以来、売り上げは順調に伸びていたのですが、リーマンショックの折に
大きな赤字を出しました。利益が出ず、商品が売れない時期がありました。
クライアントからは、以前の価格から2~3割下げないともう買わないとも
言われました。
価格を下げ、次には更に2割引きといった仁義なき価格競争になりました。
その時期に社内で役員間の確執と責任の押し付け合いが起きました。
経営の危機、人生の危機でした。
何のために仕事をしているのか、何のために生きているのか、と自問する日々
が続き、ノイローゼ気味になっていたその時に、なんと「結婚しましょう」
と言う女性が現われて結婚しました。子供も生まれました。
こうして昼間は会社役員間の喧嘩、家に帰ると子供に癒され「頑張るぞ!」
という状態が続いたわけですが、家族との出会いに救われ、さらに環境NGO
との出会いに救われたのです。
その頃、違法伐採木材が世界中から日本に集まっていることを知りました。
若い頃訪ねた世界各地の森が、減少していて(インドネシアやボルネオの森
は半減)、自分が今まで顧客のために作っていた家具に使われているラワン
材は、ワシントン条約の絶滅危惧種に指定されていることも指摘されました。
自分がそれに加担していたのかという思いに直面したのです。
豊かだと思っていた日本の森にしても、行き場のない、ヒョロヒョロの木が
多いという状態も知りました。
そこでこの日本の木を使って家具を作ればよいということに気付きました。
単純なことなのですが。
そしてまず、ワイス・ワイスは地球環境や人間の将来を考えた家具づくりを
することを宣言し、実行しました。
2008~2010年には森を壊さず豊かな森を育てるため、カタログ品のデータ
ベースをつくり、どの国の何という木を使っているかを把握しました。
その合法性を証明する証拠をそろえることにも取り組みました。
証明できないサプライヤーは切り替えることも辞さなかったのです。
工場が難色を示せば、工場を変更することもありました。
こうしてカタログ品はフェアウッド100%、国産材50%を達成しました。
以下では、国産材を使ったオリジナル家具を、幾例か紹介します。
宮崎のクヌギ…元々、シイタケ栽培の原木として使われていましたが、輸入
シイタケに市場を取られてクヌギの需要も低迷し、クヌギの木が太くなって
しまっていました。無料でもいいから使ってほしいという声もありました。
このクヌギを家具にして、地元の諸塚村診療所に納入しました。
宮城のスギ…本日持参した椅子がこの事例です。
知人に紹介され、3.11後の東北に行き、何かできることを探そうとした
のがきっかけで、栗駒木材という会社に出会いました。
ここの製材所では繊細な家具を作った経験がありませんが、何枚かの板材を
重ね合わせたパネルを抜いて椅子のフレームとするなど、工夫や試行錯誤、
そしてJISより厳しい強度要求など性能試験を繰り返し、本日持参した椅子
が出来ました。
この椅子は嬉しい事にGOOD DESIGN AWARD 2012で
「ものづくりデザイン賞」を受賞できました。
さらに「ソーシャル プロダクツ アワード 2015」にて特別賞を受賞する
ことができました。
岩手・秋田のクリ…元々はロシア産で作っていましたが、合法性の面でこれ
を岩手・秋田の国産クリ材に切り替えました。
岩手では直径50cmを超えるクリの太い木を紙パルプにしていたので、
これを製紙会社から買い取り、地元製材所が製材して家具メーカーに流すと
いう流れをつくりました。
北海道のシラカバ…昔は99%が割箸になっていましたが、外国産に取って
代わられてしまい、使われない材が腐ってムシやネズミの巣になっていると
いう状況でした。
これをツキ板にして20枚くらいの積層合板にして家具に利用しました。
特に「地域材」という言葉が、家具を地元の木で作ろう、建築をやろう、
という流れを創出したようです。
表参道ジャイルビルの地下のストリートファニチャーに、間伐材(芯持ち)
を使用しました。これにはスチーム乾燥で芯が割れないよう工夫しました。
十和田ビジターセンターには地元のブナの木などを使い、奄美野生生物保護
センターには琉球マツを使った造作・展示空間をつくりました。
セトレマリーナびわ湖(ホテル)では誰が琵琶湖周辺で木を切り出して、誰
が使っているのかを調べたのですが、その過程で地元のある人が色々な木を
山の中に在庫していることがわかり、全部買い取らせてもらいました。
その木で椅子とテーブルをつくり、ホテルに設置しました。
ホテルの部屋ごとに木の材が異なることになったのですが、
オーナーからも「それでいきましょう」ということで実現しました。
これがほかでも評判よく、長崎の案件でも全面リニューアルして、地元の木
でやることになりました。
その他、都市部近郊雑木林プロジェクト(船橋)の事例を説明しましょう。
実は30年に一度清掃工場を移転させるのですが、移転先には雑木林があり
造成するときに大量の木が伐採されます。
通常ではこれらの木は焼却されること(有料処分されるゴミとしての扱い)
になるのですが、その木を、太いものを1本1円で買い取ったわけです。
内訳はナラ、クヌギ、ケヤキ、クスノキ、ハンノキ、など。
運搬費用はちなみに10t×2台×14万円程度かかりました。
この木を製材所に持っていき樹皮を剥ぎ、ひいてもらいましたが、曲がって
いる木もあり、製材所にとってはやりにくい仕事です。
現在は自然乾燥の段階で、これの中で良い材は家具に、端材は壁面アートに
することもできると考えています。
ワイス・ワイスではこのようにデザイン・技術の繋がりで国産材の「出口」
をつくることを目指しています。
今後も人々と手を携えて、温かい家具をつくっていきたいと願っています。
これがワイス・ワイスの理念です。
以上 (講演記録:大森 明)
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山小屋通信 –4 先人の生活の名残り 大森 明
山小屋の裏山を彷徨っていると、炭焼きの跡を見つけた。
錆びた鉄製の道具や石組み、そして整地した地形。
確かに昔ここで燃料としての炭を作って、生計をたてていた人がいた。
やがて時を経て炭が石油やガスにとって代わられ、昭和の終わりには村人は
すべてこの地域を去った。
森に埋もれてしまった炭焼き。
いつ頃から炭焼きをやっていたのだろうか。
このあたりで当方の親族が江戸時代の小銭を拾ったのを見ても、少なくとも
江戸時代には炭焼きをしていたのだと思う。
また森から出て敷地の草刈りをしていると、時折錆びた蹄鉄が落ちている。
形からして農耕用の牛が付けていたと考えられる。
山奥の斜面地で、耕す土地は狭く、岩や石ころも多い。
畑や田を耕すのに大変苦労されたのではないかと思う。
ここで何をつくっていたのだろう。
段々畑だったところには桑の木が非常に多い。
きっと養蚕をしていたのだろう。
今は撤去されてしまった古い住居は二階で養蚕を行える構造になっている。
自分たちが食べる分くらいの収穫が得られる田畑、炭焼き、そして養蚕。
けっこう忙しかったと思う。
そんな日々の生活の中で「アクセント」になっていたのではないか?
と思う生活の痕跡を見つけた。
馬頭観音や庚申塔がある中に「二十三夜塔」という文字が彫られた、
小さな石碑がある。
これは昔の民間信仰(講)で、特定の月齢の夜に集まり、夜おそくまで
月が照らす中で行事と飲食を行い、供養の記念として造立した塔らしい。
二十三夜が男性の集まる夜、二十二夜が女性の集まる夜、
という地域もあるが、月の光の下、男女の出会いの場でもあったようだ。
すでに地元の方々が住んでいないので直接確認できないが、土にまみれた
日々からいっとき離れて、つかの間の楽しい時間だったのかもしれない。
現代の男女の「出会いの場」と比較すると、何だか風情があるような。
=次号へ続く=
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