森の駅発メルマガ No.183
2024 November 霜月 葉の朝露が霜となる11月、露隠葉月(つゆごもりのはづき)の名もあります。
目 次 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲
・日本の災害カレンダー「11月」
・青ヒバの会「住まいのカタチ8章 第8章 その2(最終回)」市川 皓一
・山小屋通信 Part 100「秋の作品展に参加して」大森 明
・美術コラム「春信『林間煖酒燒紅葉』」戸田 吉彦
・関連情報「カーボン・ニュートラルや農業関連のイベント情報」
日本の災害カレンダー 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲
11月1日は大西洋側の欧米諸国では有名な、ポルトガルの首都リスボンを襲った大地震(1755)の日です。
過去記録がない場所で起きた地震は繁栄の都を壊滅し、国家主導の震災復興事業は世界初の出来事でした。
震源はポルトガルの西南西 200kmの沖合、推定マグニチュード(以下M)は 8.5~9.0 相当、それに加え、
最大高30mの津波が、大航海時代に繁栄した国の首都と、地震経験がない人々を襲い、火災は一週間続き、
死者9万人、9割近い建物が倒壊炎上したと記録に残ります。現在の美しい街の景観は、復興後の姿です。
日本にも各時代の政庁都府が襲われた大震災が多々あり、関東大震災以前の記録をいくつか紹介します。
明治東京地震 1894年(明治27年)6月20日 東京湾北部震源。M 7。被害状況から東京湾沿い下町低地の
震度6相当、特に京浜地区の被害大きく、深川区(現江東区の一部)の紡績工場タンクが崩壊。死者31人。
死傷者発生のほか、液状化現象とみられる噴水や噴砂が発生。
安政江戸地震 1855年11月11日(安政2年10月2日)22時発生。東京湾北部から江東区辺りの陸域震源、
M 7 、被害状況から山の手で震度5、下町で震度6と推定。日比谷入江埋め立ての大手町・丸の内周辺、
隅田川氾濫原開発の浅草・本所・深川の軟弱地盤の建物が倒壊。火災30数ヶ所。推定死者7千人超。
元禄関東地震 江戸時代中期の1703年12月31日(元禄16年11月23日)発生。相模湾震源、推定 M 8.2。
相模トラフ発生の海溝型巨大地震、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の前の関東地震とされる。
推定震度7~6、小田原城下は火災で壊滅。房総の津波の高さ10m。死者1万人超、家屋全半壊 2万棟超。
慶長伏見地震 1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)京都中心に畿内震源の内陸直下型地震。M 7.5 以上と
推定。伏見城の天主崩壊、石垣崩れ500人以上圧死。京全体で4万5千人の死者と伝わる。
発生時の年号は文禄だが同年改元の慶長から慶長伏見地震と言われる。
天正地震 1586年1月18日(天正13年11月29日)深夜。震源は岐阜県内陸、伊勢湾、2か所連動発生など
諸説あり地震規模 M 8.6 と推定。1891年(明治24年)10月28日の濃尾地震(M 8.0)以上の国内最大の
内陸地震。飛騨で山崩れ、庄川沿い帰雲山崩壊は白川郷(岐阜県)の帰雲城城下町を全て埋没。
永仁鎌倉地震 1293年5月27日(正応6年4月12日)震源は相模湾、M 7と推定される鎌倉時代の地震。
当時幕府があった鎌倉は、建長寺が炎上するなど寺院や民家に倒壊や火災発生。死者数千~2万人以上と
諸説あり。地震発生は正応の元号だが、この地震災害を受け元号が永仁に改元され地震名に付く。
貞観地震 869年7月13日(貞観11年5月26日)M 8.3、震源三陸沖。陸奥国府(現宮城県多賀城市)を津波が
襲い1千人溺死。津波が海岸から3~4km内陸へ上り、地震断層は日本海溝に並行、長さ200km、幅50km
超に及ぶ。三陸沖を震源とする海溝型巨大地震と最新研究から推定。2011年の東日本大震災で再び注目。
推古地震 599年5月28日(推古7年4月27日)『日本書紀』に家屋倒壊の記載があり、日本最古の被害記録
となる飛鳥時代の地震。推定M 7.0。震源など詳しい地震状況は不明である。
<青ヒバの会>🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲
「住まいのカタチ8章」市川 皓一(一級建築士)
第8章「青ヒバの家」のコンセプト(2)
日本は森林の国と言われるように、国土の3分の2は森林におおわれています。森林を育み森林
と共生して生きて来た民族が、この70年間に工業生産主体の国づくりに翻弄されてきました。
その事自体は、結果として世界経済を動かすまでに国力を高めたことはご存知の通りです。
一方、日本の急峻な地形は山の森林が恵の雨を蓄え、河川となり流域を潤し海へ流れ込みます。
今から13年前の2011年3月11日に東日本に強烈な地殻変動が発生しました。東日本大震災です。
リアス式海岸には10mを越える津波が押し寄せ、海で生業を立てていた人は全てを失ってしまう
事態に追い込まれたかに見えましたが、その3年後、牡蠣やホタテ貝の養殖業で生計を営んでいる
人々は蘇りました。森の恵みが海にそそぐ自然生態系は壊れなかったのです。悠久な大自然の営み
です。人間社会の様々な領域の人々に直接、間接的に経済効果を生み出しているのです。都会では
森林の思想が入る余地のない効率優先の時代を作り出しましたが、森林の思想は循環型経済で考え
るべきであり、またそう考えさせてくれるのが森林です。地域の中で森林を育み、村や町と共に、
経済資源としての森林を考える意味が真剣に問われているのです。住まいづくりの究極の目標は、
快適かつ健康に暮らす事の出来る家づくりです。
わが国ではグリーンウッド法が2017年5月に施行され、木材の建築利用は再生可能な資源として
地球環境に貢献し、空気中の炭素を長期固定・貯蔵により、地球温暖化の防止にもなっています。
具体的な炭素固定量を考慮すると、住宅の資材別では別表のようになります。1915年国連総会で
採択されたSDGSでは、Sustainable Development Goals「持続可能な開発目標」と和訳され、
情報過多のSNSの時代において、瞬く間に様々な取り組みが始まり各分野に影響を与えています。
その視点に立ちますと、個人や家族の生活環境との連携で考えるために30年で潰される家づくり
は早急にやめ、日本の森で自給され風土に根差した自然エネルギーを取り込む、木の家の住宅を
造ることは喫緊の課題であり、私達のミッションと考えています。
さらに「生活と消費のサイクルの中で、つくる責任と使う責任はパートナーシップ」と考える。
そのような習慣を身につけた基盤を、イノベーションと共に確立したいと思います。
三世代同居の青ヒバの家・T邸
山小屋通信 PART100🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲
「秋の作品展に参加して」大森 明(森の駅発メルマガ編集・発行)
毎年地元で開催される秋の作品展に、今年も自作の絵を自作の木製フレームに収めて出展した。
当方は毎年欠かさずに出展してきたが、
今年出展した絵は先日当メルマガにも掲載した碌山美術館を描いたF4サイズの風景画。
自作した木製フレームは薄紫色に塗り、すっきりと明るい感じに仕上げた。
自分で描いた絵を自作の木製フレームに収めるせいか、「できたぞ!」という思いが強く、
満足感(自己満足感)たっぷりだ。
絵と木製フレームのバランスも良いと思っているが、如何であろうか。
この作品展は地元ボランティアの方々の運営で開催されており、
会場には住民の方々が多く訪れて、毎年賑わっている。
出展者もプロの作家さんではなく、地域住民の方だ。
今年は他の方々の出展作に「ほほう!」とうなりたくなる作品があった。
例えば手づくりアコースティックギター。完成度が素晴らしく、思わず見入ってしまった。
絵画にも、何日かけて描いたのだろうかと思ってしまう細密に描かれた鉛筆画があり、
感心してしまった。
何かと刺激を受けた作品展だったようで、終了したばかりだが何だか創作意欲が湧いてきた!
美術コラム 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲
春信「林間煖酒燒紅葉(林間に酒を温め紅葉を焼く)」戸田 吉彦(日本美術アカデミー理事)
色づく秋の里も庭の紅葉もこれから見頃です。先に名所絵に日本の季節を表した江戸後期の絵師
広重を紹介しましたが、季節感を浮世絵に描き人気を博した最初は、木版画に色彩革命を起こした
江戸中期の絵師鈴木春信(1725 ?-1770)でしょう。浮世絵で名所絵が注目される以前は、役者絵と
美人画の時代でした。俳諧趣味の風流な人々が、新年を前に絵暦を公開で交換する会は自ずと絵に
優劣がつき、注目を集めたのが春信の絵です。明和2~3年頃に始まるこの私的な集まりは、絵師
春信を登場させ、錦絵と呼ぶ多色刷り浮世絵版画が発達する「エポックメーキング」となります。
鈴木春信「林間煖酒燒紅葉」中判錦絵(28.8 x 21.6 cm)明和五年(1768)頃製作 シカゴ美術館公開画像
春信の重要性は、1965年に大英博物館が開催した錦絵誕生200年記念「春信とその時代展」、
1970年は、春信没後200年を記念した、東京国立博物館が国内の作品を集めた展覧会の開催、
フィラデルフィア美術館開催の同館所蔵品展覧会から明らかです。また世界規模で春信の価値を
認めている事が分かります。どの国も作品を国境から出さなかったのは、浮世絵は植物性染料を
使うので退色し易い保存性の問題に加え、春信の作画期間が短く作品数が限られるからです。
しかし2002年秋、千葉市美術館開催の小林忠館長(当時)監修、「青春の浮世絵師 鈴木春信ー
江戸のカラリスト登場」は、初めて国内外の作品が一堂に会した画期的展覧会でした。
また海外にあることから触れる機会が少ない春信作品の、真贋も改めて精査されたのでした。
その意味においても国内外所蔵関係者の理解と協力が結実した意義深い展覧会となりました。
この絵もその時に選ばれて会場に並んだ逸品です。同展図録の作品解説を以下記します。
そぼ降る雨の音を聴きながら、暖かい遊郭の二階屋で遊女の燗した酒を飲もうとする若衆、羽織の紐を
ほどき帯も体の前でゆったりと結び、実にリラックスした様子である。洒落た遊興の一場面であるが、
後ろの衝立に貼られた漢詩に目をとめることで、この作品の面白さは更に広がる。
「林間煖酒燒紅葉」は白居易の漢詩の一文で、更に「石上題詩掃綠苔」と続く。林の中で紅葉を焚いて酒を
燗する、また石の上の緑の苔をはらいそこに詩を書き付けるという風流を詠む。見れば本図の遊女が燗する
酒も紅葉で焚かれ、手前では禿(かむろ)が葉の一枚一枚を丁寧にちぎっている。漢詩の舞台は中国の広々と
した林の中であるが、それを江戸の遊郭の一室に転換させる趣向が洒落ている。この詩は『和漢朗詠集』巻
上、秋興の項にも所蔵され、謡曲「紅葉狩」などにも引用された名句である。『和漢朗詠集』は藤原公任の
歌謡集で、1013年頃成立した。朗詠のための漢詩約590句、和歌約220首が季節や主題により細かく分類さ
れており、江戸時代に入ると庶民層にも広く普及し愛好された。衝立にはほかにも寿老人の扇面画などを散
らし、漢詩のイメージをもり立てている。紅葉を焚く匂い、酒の香り、雨音など、見る者の五感を刺激する
作品である。なお若衆の羽織の紋は源氏香(組香の一つで、5種の香木の異同を答えるもの。各々に組合せ
を示す図と『源氏物語』各帖の名前が割りあてられる)の図に似せてあり、まだ年若くして色の道に通じる
若衆に、希代の色男光源氏のイメージを重ねている。( F ) *Fは執筆者の頭文字と思われます(筆者注)。
簡潔明瞭な文章に続く言葉は蛇足ですが、漢詩や謡曲に親しむ機会が少ない昨今であり、
図録という限られたスペースの文章ですから、少々内容を補足します。
「林間煖酒燒紅葉」は「林間(りんかん)に酒を煖(あたた)め紅葉(こうよう)を焼(た)く」と読み、
七言律詩「送王十八歸山寄題仙遊寺」(王を十八歸山に送るにあたり仙遊寺に寄せて題す)の一節です。
四字熟語の「林間煖酒」は秋の風流な趣味嗜好を指します。
また白居易は、杜甫や李白と共に唐の三大詩人と謳われた白楽天(772-846)の別名です。
曾於太白峰前住 曾て太白峰前に於いて住み かつて太白峰の前に住んだ頃は
數到仙遊寺裏來 數しば仙遊寺裏に到り來る しばしば仙遊寺の裏まで訪れた
黑水澄時潭底出 黑水澄む時に潭底は出でて 黒い水面が澄む時は淵の底が見え
白雲破處洞門開 白雲破るる處に洞門は開く 白い雲が切れた処に洞門が開いた
林間煖酒燒紅葉 林間に酒を煖めて紅葉を燒き 林間で酒を温めるため紅葉を焼き
石上題詩掃綠苔 石上に詩を題して綠苔を掃う 石の上に詩を記そうと苔を払った
惆悵舊遊無複到 惆悵す舊遊複た到ること無きを 再び遊べないことはとても悲しい
菊花時節羨君回 菊花の時節に君が回るを羨む 菊花が咲く時故郷へ帰る君を羨む
白居易は民の窮状や役人の理不尽を奏上する詩を理想とするも、玄宗皇帝と楊貴妃の愛を謳う
『長恨歌』で有名になります。『長恨歌』は仙遊寺で友人達と遊んだ時の余興の作でした。
その友人の一人、王質夫と都に上りますが王が先に帰国することになり、その時送った詩が、
「送王十八歸山寄題仙遊寺」です。懐かしい日々は還らないのかと嘆き、菊の花が咲く季節に
故郷へ帰る友を羨ましいと励ました詩です。
日本でこれを紹介した詩文集『和漢朗詠集』(1013)は長く文化人の教養書となりました。
また能の謡曲「紅葉狩」は、鬼神退治に向かう平維茂が山奥で女達が開いている酒宴に誘われ、
鬼神の計略と知らず不覚に酔うも、最後は神から授かる神剣で役目を果たす日本の物語ですので、
「林間煖酒燒紅葉」の登場場面を転写します。
(大和田健樹編 謡曲評釈 第十巻 紅葉狩 観世小次郎作・括弧内は筆者の訳)
地「恥かしながらも袂にすがりとゞむれば。さすが岩木にあらざれば心よわくも立ち帰る。
所は山路の菊の酒。何かは苦しかるべき。」
(恥じらいながら袂にすがり留められては、我が心も木石ではない。
山路の菊の酒を飲むのに何の差し支えあろうと心弱く酒宴に立ち戻る)
地クリ「げにや虎渓を出でし古も。心ざしをば捨てがたき。人の情の盃の。深き契のためしとかや。」
(中国の慧遠が友のため禁を破り虎渓の石橋を渡った昔から、情けある盃には因縁がある)
シテサシ「林間に酒をあたゝめて紅葉を焼くとかや。
(林間に酒を媛めて紅葉を焼くというではないか)
地「げに面白や所から。巌の上の苔莚。片敷く袖も紅葉衣の。くれなゐ深き顔ばせの。」
(面白いことに岩の上の緑のこけむしろには衣の袖のように紅葉が落ち敷いている。紅葉の様に女の顔は赤い)
ワキ「此世の人とも思はれず。」(この世の人と思えない)
地「胸うち騒ぐばかりなり。」(胸騒ぎがするばかりだ)
鎌倉期以後は、琵琶法師全国を行脚し弾き語った『平家物語』の流行も「林間煖酒燒紅葉」の
普及に一役買ったでしょう。重要な登場人物の一人、まだ幼さ残る高倉天皇の情け深く教養の高い
人柄を偲ぶ挿話「紅葉」に、「林間煖酒燒紅葉」が登場します。以下にその挿話を紹介します。
それは承安年間、高倉天皇が十歳の頃に紅葉を愛され、庭に築山を設え櫨(はにじ・はぜ *注)や
美しい紅葉の鶏冠木(カエデ)を植え、日に何度も眺め楽しまれた。しかしある夜の嵐で紅葉はみな
吹き散らされたので、翌朝、庭掃除の召使達が掃き集め、寒い朝なので小枝や落葉で焚火をし酒を
温めて飲んだ。しかしそれを知った帝の側近は帝のお怒りが下ると怯えた。やがて帝が紅葉の行方
を尋ねられたのでありのまま申し上げると、帝は頬笑み、「林間に酒を煖めて紅葉を焚く」という
詩の心を誰がお前達に教えたのかと感心してみせ、何もお咎めにならなかった。(筆者の現代語訳)
高倉天皇(1161~81)は後白河天皇(1127~92)の子に生まれ6歳で即位、平清盛(1118~81)の
娘徳子(1155~1215)を娶り、安徳天皇(1178~1185)の誕生の2年後に譲位、翌年19歳で崩御。
源平を操る策士の父と横暴な権力者の義父の間に挟まれ、全て思い通りにならない人生でしたが、
細やかな情と穏和な人柄、幼くして「林間煖酒燒紅葉」が咄嗟に出る秀でた才能を『平家物語』は
伝えています。その「紅葉」に続き「小督」では、高倉天皇の寵愛を受けた小督が、それを拒むも
清盛の怒りを買う不幸が併せて語られています。
再び絵に戻れば若衆の頭上にある漢字「蒼」は、青いとか青々と茂る意味です。「蒼蠅驥尾」は
青蠅が駿馬の尻尾に捕まり遠くへ行き、また「霖雨蒼生」は慈雨が草木を育てる意味の熟語です。
意味なくこの一字を選び、画中の目立つ位置に置いたと思えぬ春信は、当時最先端の知識人だった
平賀源内と親しく、川柳で世情を笑い飛ばした大田南畝が非常の人と称える相当な教養人でした。
冒頭の解説通り、源氏香の紋付羽織で光源氏を気取る若衆を迎え、紅葉を焚きながら遊女は何を
語ったのか、幾通りも見立てが可能な絵の解釈は、鑑賞者の知識と想像力に委ねられます。
またこの絵に漂う暖かい雰囲気は、火鉢だけでなく戸外で紅葉を打つ雨風で一層強く感じられ、
簡単な筆使いでも大事な要所を外さずに描いて絵の魅力を増す、春信の画才がよく分かります。
「神無月 時雨と共に神南備(かんなび)の 森の木の葉は降りにこそ降れ」(後撰和歌集 不知読人)と、
古歌に謳われる神無月は今の11月で、その頃降る雨が時雨です。漢詩の「林間煖酒燒紅葉」には
雨風は登場しませんが、謡曲「紅葉狩」では鬼が現れる段で嵐が吹き、『平家物語』は風に散る
紅葉に高倉帝の情けが示され、絵を鑑賞する者の想像が広がります。森を神が居る神南備と呼び
季節の変化を慈しむ大和心の雅さは、江戸時代の庶民向けの浮世絵にも春信の筆で現れ、海外に
渡るや有名美術館が求め文化人を魅了しました。しかし江戸市井に生きた春信の絵は肩肘張らず、
当時の庶民にも人気がありました。この絵が描かれた頃、吉原近くの正燈寺はもみじ寺と呼ばれ、
川柳に「吉原は紅葉踏み分け行くところ 今日こそは真の紅葉と母へ云い」と詠われた、紅葉狩り
の名所でした。文化人も庶民もそれぞれ楽しめる、敷居が低く奥が深い絵というのはありそうで
実は世界広しといえどなかなか無いものです。
参考文献:小林 忠 監修「青春の浮世絵師 鈴木春信ー江戸のカラリスト登場」・ 国立国会図書館デジタルライブラリー
*注 ハニジ・ハゼノキ・黄櫨 ウルシ科ウルシ属落葉高木の雌雄異株 学名 Rhus succedane 別名:ロウノキ、リュウ
キュウハゼ 原産地の東アジア南方から渡った奇数羽状複葉が赤く紅葉するハゼノキは、公園等で見かけ、俳句では
櫨紅葉(はぜもみじ)と呼び櫨の実と共に秋の季語です。櫨の実から採る木蝋は和蝋燭の原料にします。
写真 https://ikbird.sakura.ne.jp/5ha/hazenoki/hazenoki.htm
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環境・農林関連イベント
🌲脱炭素新時代~カーボンニュートラルの実現とグリーンエネルギーへの転換~
2024年11月20日(水)13:00~17:45 東京コンベンションホール/5F<