メルマガ182

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森の駅発メルマガ No.182
2024 October 長月 10月の和名は神無月の他、出雲の神在月、伊勢 神嘗祭の神嘗月があります。

目 次 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲

・日本の災害カレンダー「10月」
・山小屋通信「ミョウガ」大森 明
・青ヒバの会「住まいのカタチ8章 第8章 その1」市川 皓一
・美術コラム「広重の『鴻の台』 と『真間の紅葉』」戸田 吉彦
・関連情報「映画『サステナ・フォレスト』の川上氏がメディア賞受賞」

日本の災害カレンダー 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲

10月の災害は、従来の災害対策を見直す契機になった、比較的近年の3例をご紹介します。

・死火山や休火山の分類用語が、使用中止になった、御嶽山の噴火。
 御嶽山が有史以来の初噴火 1979年10月28日5時20分頃、御嶽山南斜面で水蒸気噴火が開始、
火口周辺は火山灰が約50cm堆積、群馬県前橋市まで降灰。過去に活動記録がない噴火に、
学界は衝撃を受け、以後、火山活動の分類用語、「死火山」と「休火山」の使用を中止。

・2004年10月の台風襲来と地震発生は、複合災害を考える契機。
 平成16年台風22号 2004年10月9日伊豆半島上陸、関東縦断。石廊崎で最大瞬間風速67.6m/s。
台風周辺の暴風は横浜市で駐車中のトラック30台以上横転。台風周辺の発達した雨雲は東海・関東甲信に
3日間で300~400mmの降雨。都心も降水量69.5mm/hを観測、東京メトロ麻布十番駅付近で線路冠水。
死者・行方不明者9人、損壊・浸水家屋13,000棟以上。
 平成16年台風23号 平成期最悪の台風災害。2004年10月20日西日本・東日本縦断。この年に上陸した
台風10個は観測史上最多。最後の23号は高知県土佐清水市上陸。近畿・東海通過。土砂災害や河川氾濫の
浸水被害発生。舞鶴市では由良川沿い路上で立往生のバスでは、続く増水に乗員乗客がバスの屋根に避難、
37人が朝まで救助を待った。死者・行方不明者98人、浸水家屋5万棟。
 新潟県中越地震 2004年10月23日18時頃発生、震源は新潟県中越地方。マグニチュード6.8。震度7。
活発な余震で大規模土砂災害発生、山古志村は約2年間全村避難。新潟県中心に死亡68人、負傷4,805人、
家屋被害12万棟以上。上越新幹線が営業運転中に初の脱線事故。

・令和元年10月の連続台風は災害情報、避難対策、避難方法を見直す契機。
 令和元年台風19号 2019年10月12日伊豆半島上陸。記録的大雨と暴風で関東・東北を進み神奈川県
箱根町は総雨量1,000mm超、上陸日の降水量922.5mm、関東甲信と静岡県17地点で500mm以上など、
全国歴代1位を記録更新。台風接近に先立ち気象庁は東日本13都県に大雨特別警報、東京都も23区に初の
大雨特別警報発令。多摩川など全国74河川で堤防決壊140ヶ所、土砂災害962件。河川の氾濫発生情報が
出ないミス、浸水想定区域で警報発令後に避難所開設、避難所が満員で入れない住民が避難先を探すなど、
危機意識の欠如と対策不足が目立った。死亡85人、行方不明3人、負傷476人、建物被害9万棟。
台風上陸日は、東海道新幹線終日運休、羽田・成田の両空港発着便欠航。
 令和元年台風21号 2019年10月24日~26日、日本東海上を北上。上陸せず、関東・東北の太平洋側は
大雨発生。半日で平年10月1ヶ月分の降水量を上回る記録的大雨の千葉・福島両県は15・19号の台風被害
復旧途上に追い打ちをかける大雨で、河川氾濫、土砂崩れ発生。千葉県中心に死者13人、負傷者8人、浸水・
損壊家屋3,199棟。死者の半数は車で避難中の車中死。車の避難方法を捉え直す災害となった。

山小屋通信🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲

「ミョウガ」大森 明(森の駅発メルマガ編集・発行)


ミョウガをたくさんいただいた。
ぷっくりとした立派なミョウガだったので、まず絵の題材にしてから、
天ぷらなどの料理に使うことにした。
絵に描くにあたって、まじまじとミョウガを観察したが、
よく見るとミョウガは不思議な形をしている。
見た目はおくるみに包まれた赤ん坊のようでもあり、タケノコのミニチュア版のようでもある。
色合いも下部は白っぽく、上にいくにしたがって赤茶色や緑色などになり、
グラディエーションがかかってけっこう複雑な配色だ。
そもそも今回いただいたものもそうだが、食べるのはミョウガの花の蕾部分とのこと。
咲いた花も食用になるらしいが、この蕾状態のミョウガを天ぷらにしたり、
味噌汁の具にしたり、刻んで薬味にしたりして食べる方が多いと思う。
食べたことはないが、ミョウガタケと呼ばれる茎の部分(偽茎)も食べられるとのことだ。
しかし意外なことに、ミョウガを食用目的でわざわざ栽培する国は日本だけらしい。
ミョウガの独特の風味は何てすばらしい!と感じるのだが、
国や人が違えばそれぞれなのかなと思いながら、
好物のミョウガを気持ちを込めて絵に描いた。

<青ヒバの会>🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲

「住まいのカタチ8章」市川 皓一(一級建築士)

第8章「青ヒバの家」のコンセプト
その1 サプライヤーの都合に負けない家づくり
衣も食も、そして住まいもブランド化の時代です。モノが豊富な時代だから一目で質の分かる、
ブランド化されたきれいな商品が注目されます。その一方でライフスタイルも多様化しました。
私達はキャッチコピーに流されないおいしい生活を、本物の家で堪能していただきたいと思い、
違いが分かる方々のために、「青ヒバの家」を熟成させてきました。木材の世界もブランド化が
進み流通市場と価格に現れています。例えば木の色艶は時と共に変わります。青森ヒバの場合は、
当初白っぽい黄色をしており、ヒノキチオールの精油分が木の表面に浮き出て黄金色になります。

外国では木肌の色で樹種を分類していますので、ホワイトウッド、レッドシーダ―等と言います。
米国材の米ヒバは色艶は似ていますが、別のアラスカヒノキですので、私達は国産の青ヒバを、
ゴールドウッドと呼びます。成長が遅い青ヒバは自然林の中で自由に枝が繁茂し、その枝が地面
に這って根付く覆上更新と、実生の天然更新があり、人の手を煩わせずに森林を形成します。
それゆえ節も多く、製材過程で注意も要しますが、節が自然素材の証明になり、自然感覚を呼び
覚まし、自分流の家づくりが可能です。心掛ければ300年モノの家づくりが実現します。

青ヒバの第一期黄金期は江戸中期と思われます。北前舟の交易が盛んになると、京の文化は舟に
乗り奥州は津軽半島の十三湊にまで届きます。遠くエゾの地の海産物が、京の「ニシンそば」や
大阪名物「塩コブ」になる時代でした。帰りの舟には青ヒバの丸太が積まれ、海上輸送中継地の
能登半島に持ち込まれ、輪島では漆工芸品「輪島塗」の生地に青ヒバが使われました。

現代は人間の意識が視覚情報で統合され、バーチャル(仮想認識)な空間感覚が生まれ、本来の
感覚が失われています。元々は日本人の生活と美意識が、環境もデザインも統合し、独自の空間が
生まれていたのです。木という素材の可能性が人の快適性を補う時に、バーチャルな簡便さで手に
入れようとすると、木の長所も失ってしまいます。眼には見えませんが失うものも多いのです。
日本人が、営々と培ってきた木の文化は、まさしく鋭い六感を働かせた文化です。高度な文化が
培われれば培われるほど、六感に訴える家が安らぎと健康を、私達にもたらしていたのです。

無垢な樹の住まいは、もう一つの森林を都市に実現するのです。考えただけでも心ときめくでは
ありませんか。木材を生きたまま活かし、森林の息吹を住まいに取り込むことで、我々は森林を
感じていきたいのです。素材にこだわり青ヒバとの出会いで知った原点は、六感に訴える住まい
を取り戻すことに外なりません。私達は、青森ヒバの天然林を訪ねる旅を30年来行ってきて、
すでに30数回を数えます。何度分け入っても今だに違う発見と感動が続いています。


木造建築研究フォラムin五所川原

青ヒバが他の木に比べ、格段に強い事の証明として、下北半島の猿ヶ森の埋没林があります。
今から600~800年以上前、大津波があった時に飲み込まれ、なぎ倒されたヒバの巨樹が、
砂に埋もれてしまったのです。時の流れと共に、なぎ倒された状態のまま地表に出現し、
それが何と、小川の側にあるものですら少しも変形していないのです。
つまり腐っていないのです。先の尖った木からは青ヒバ特有の芳香も幽かにしていました。
木の持つ、森林の持つ生命力の底力が、そこに確かにありました。
素材としてのリアリティをまざまざと感じさせられた瞬間でした。


青森ヒバの自然林

美術コラム 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲

広重の『鴻の台 』と「真間の紅葉」戸田 吉彦(日本美術アカデミー理事)


歌川広重『名所江戸百景』から「鴻の台とね(利根)川風景」(1856)と「真間の紅葉手古那の社継はし」(1857)


 今月も広重の『名所江戸百景』から、同じ台地の違う方角を見た秋の景をご紹介します。
『名所江戸百景』の秋の部は、95景の「真間の紅葉手古那の社継はし」(右)の次に96景の
「鴻の台とね川風景」(左)があり、「鴻の台とね川風景」の左の崖の奥の方へ歩いて行くと
「真間の紅葉手古那の社継はし」が現れてきます。「真間」は上代日本語で崖を意味します。
先月は、初代広重の「赤坂桐畑」の逆方向を俯瞰で描いた、二代広重の絵を紹介しましたが、
今月の絵はどちらも初代広重の作です。

兵営や 霜に荒れたる 鴻の臺(こうのだい) 正岡子規

「鴻の台」は国府台の別名、「とね川」は江戸川の旧名、別の名をわざわざ使う画題です。
国府台は奈良時代に下総国の国府(政庁)が置かれた台地で、今は千葉県市川市の地名です。
市民に開放された里見公園には国府台城の名残りがあり、中世の古戦場を今に伝えます。
「鴻の台」には昔、防人達が激流の「とね川」を前に立ちすくむと、崖から鴻の鳥が飛び立ち、
浅瀬に降りたので将が喜び命名し士気を高めた伝説があります。誰の命名かは諸説ありますが、
江戸幕府御家人だった広重が使う「鴻の台」には、吾妻武士の自負心が感じられます。

 またかつて江戸湾に注いだ「大とね川」は、家康が太平洋へ変えるように治水工事を命じ、
元の場所の隅田川、荒川、江戸川を整備して人工水路を繋ぎ物流の水上交通路にしました。
工事は数代続き、北関東の機織物や房総の農水産物を運ぶロジスティクスが完成します。
やがて、江戸は大阪を凌ぐ日本一大きな経済都市へ発展します。繁栄をもたらす流れを前に、
広重はここがかつて「とね川」であった時代の先人の労を思い、旧名を使ったのでしょう。

 この懐古調は当時の流行でもあり、人気読本『南総里見八犬伝*』の影響と言われます。
里見とは国府台古戦場跡の里見公園の由来と同じ、房総で活躍した中世の大名の名前です。
かつて一帯は葛飾郡(今は東京都葛飾区のみですが)と呼ばれ、墨田区出身の葛飾北斎が示すように、
西は市川葛飾八幡宮、西船橋の総社葛飾大神宮、北は埼玉や茨城に届く広さでした。
下総の名所を『名所江戸百景』に加えるのは、今日、浦安に作ったテーマパークの名前に、
東京と名付けて他県から不思議がられるこの地特有の感覚です。

*『南総里見八犬伝』は読本作者の曲亭馬琴(滝沢馬琴)が、1814年から1842年まで書き続けた全98巻の伝奇小説。
房総の大名里見氏の史実にフィクションを加え、最後のクライマックスは市川市の国府台や行徳が舞台の合戦です。

「鴻の台とね川風景」は江戸を見渡す構図に、幕府定火消役人だった広重らしさを感じます。
視界の先にある崖と等しい高さの広重の目は、どの対象物からも距離をとる客観的な視点です。
しかし崖の上に描いた物見遊山の人々には、絵を見る者が自分自身を投影する効果があります。
彼らと共に「とね川」を行く帆掛け舟を目で追えば、江戸の彼方に聳える富士が現れるように、
今も新宿都庁が見え、晴れた日は富士山が現れるこの地の魅力を、広重は活写しています。
この「鴻の台とね川風景」と対照的な構図が、「真間の紅葉手古那の社継はし」です。

葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ 山部赤人(万葉集)

 隣りの「真間の紅葉手古那の社継はし」は、紅葉の間から覗き見る、臨場感溢れる絵です。
我を忘れて近寄る時に体験するこの主観的視界は、距離を取る客観的視界とは対照的です。
浮世絵研究者は近接拡大化の構図と呼びますが、近景の拡大はインパクトが大変強くなります。
浮世絵が店頭販売された当時も新鮮だったと思いますが、今もポスターなどでお馴染みです。
有名な映画の一場面に、浮世絵の大胆な構図を見るという海外の記事を見た事がありますが、
「真間の紅葉手古那の社継はし」が海外でも人気があるのは、現代的なためかも知れません。
もっとも日本では、江戸時代後期に西洋銅版画が浮世絵に影響を及ぼしたと考えています。

 しかし「真間の紅葉手古那の社継はし」は、この伝説に疎い者には大変謎めいた絵です。
万葉集に謳われた伝説の美女を祀る真間の手古那の社(現手児奈霊神堂)、彼女を一目見たいと、
遠く都からも求婚者たちが渡って来た継橋も画中にありますが、水辺の向こう側にあるので、
なぜ(旧とね)川向こう(東京)にあるのか疑問が湧きます。絵師の位置は社と向かい合う、
国府台の台地の縁に建つ弘法(ぐほう)寺の境内で、弘法寺は行基が彼女の死を憐れみ建立し、
境内にはかつて有名な紅葉があったそうです。寺と社の間は現在宅地で江戸川は蛇行しつつ、
離れた場所を流れています。市川市教育委員会によればかつてこの一帯は入江で、手古那は
玉藻を刈っていたとの事です*。そこでようやく広重が水辺を描いた意図が分かります。
社は、男達の争いを悲しんだ手古那は入水、打ち上がった浜に建てられたと伝わります。

*「真間の入江」は、 市川市北部を形成する下総台地とその南につくられた 市川砂州、現在の国道14号と京成電鉄
が並行して走っている地域の間にできた入江のことです。それは現在の江戸川に開口している真間川の河口付近から
須和田、菅野、国分、北方、柏井、大野にわたる低地一体に広がっていたので、柏井と大野を結ぶ「浜道」は、ある
時期入江の岸部にあったと思われます。この入江に生えている美しい玉藻を、手児奈が水に入って刈っている情景が
偲ばれます。玉藻は食料にしたものか、あるいは神に捧げる神位であったのかはよく分りません。市川市教育委員会

筑波嶺(ね)の 峰より落つる 男女川(みなのがわ) 恋ぞつもりて 淵となりぬる 陽成院(百人一首)

 もう一つの謎は彼方にある筑波山です。男と女からなる連山は万葉集の昔から恋歌になり、
一見して真間の手古那の絵に相応しいように見えますが、方角に怪しいところがあります。
地図を開くと弘法寺から見て手古那の社の方角は南東、筑波山はさらに90° 左の北東です。
つまり実際の筑波山は真間の手古那の社の先にはなく、画面の枠外ということになります。
これは知らずに描いたというより、見回せば筑波山もあると言いたい誇張の一種でしょう。
「鴻の台とね川風景」も現地調査では富士山はもっと右の枠の外と言われ、成る程確かに、
半分切れ窮屈に見えます。縦の判型に絵を収めるシリーズですから無理も出て来ます。
このような謎があってもよく紹介される絵は、人を惹きつける魅力があるからですが、
特に強く引き込まれると、人は自分の感動を否定する疑問に目をつむりたくなります。
西洋画が学校教育で普及するまで、日本美術は空想を容認する省略と誇張が魅力でした。
特に浮世絵は位置や形の正確さに細かくこだわらず楽しむ、庶民感覚の娯楽です。

しかし「真間の紅葉手古那の社継はし」の誇張は、真を写すと公言した広重らしからず、
江戸の名所絵揃物に何故そこまでして筑波山を入れたのかと、広重の動機が気になります。
思い出すのは広重より37歳上の北斎です。名所絵も先に『冨嶽三十六景』で名声を上げ、
広重も数年後『東海道五拾三次』で注目を浴び、世間から比較されるようになります。
広重が北斎を意識しても当然で、北斎没後『冨士三十六景』と『不二三十六景』を出すほど、
強いものでした。しかし北斎の富士は肉筆画を含め、数え切れないほど沢山の絵の中にあり、
広重が着目したのが江戸から見えるもう一つの山、筑波山です。富士山同様、万葉集はじめ、
平安時代の和歌に詠われ都人も知る関東の名山です。反対側の富士山と並べ1枚にするのは、
絵巻物以外では困難ですが対で並ぶ揃物なら可能になり、先輩の北斎との違いにもなります。
広重は絵を描く前の下見で、国府台は富士山と筑波山の両方が見えると発見したのでしょう。
武士の強い負けず嫌いは幼い頃から武術の稽古で鍛えられ、無くてはならぬ第二の天性です。

 筆者も千葉県育ちですが、県大会に国府台高校が出ると、応援歌の「鴻陵」が耳に入ります。
国府台生が鴻陵生や鴻陵健児を名乗る鴻陵とは鴻の台、つまり国府台と今回初めて判りました。
古くは国府台城を巡る戦場だった市川市は、明治維新後初の国立総合大学建設予定地となるも、
戦費の前に廃案となり、その予定地には陸軍施設が建ち、陸軍の街になった勇ましい風土です。
しかし戦後は文士の永井荷風や国民的日本画家の東山魁夷が移り住み、文化人の町となります。
国府台には大学や病院が集まり、律令制時代の政庁跡が発掘され古代史の調査が進んでいます。
戦争の記憶が薄れた今は、真間の手古那に想いを馳せ万葉浪漫に浸る関東の代表的観光地です。
広重が描いた『名所江戸百景』も、戦国時代が幕を閉じた約300年後の泰平の世の風景でした。
広重の絵が愛されるのは、平和と繁栄を願う日本の抒情性に普遍的魅力があるからでしょう。

最後に双方の絵に共通するのは場所に加え季節も同じ秋。それを示す画題の「紅葉」ですが、
藤原定家は「花も紅葉もなかりけり」と浦の苫屋の秋の夕暮れを詠い、冬に向かう侘しさの中、
心を明るく照らす色鮮やかな紅葉を暗に称えました。よく楓(カエデ)との違いが問われますが、
どちらもカエデ属広葉樹で、植物上の分類は変わりません。切れ込みの深い葉をモミジと呼び、
7裂に「いろはにほへと」7音を当てたのが「真間の紅葉」に描かれた「イロハモミジ」です。
万葉集にも現れる紅葉狩ですが、庶民に広がるのは花見と同じく、江戸時代中期以降からです。
また園芸品種も江戸時代から盛んになり、現在は20種類あるとのことです。

*考文献 小林忠 監修『浮世絵「名所江戸百景」復刻物語』芸艸堂・小林忠著『浮世絵』山川出版 他。
*現在は「手児奈」の表記が一般的ですが、ここでは広重の画題に従い、固有名以外は「手古那」に統一しました。
*弘法寺、手古那の社、筑波山、富士山の位置関係は、国土地理院 国府台地図を元に確認しました。
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.743795/139.905127/&base=pale&ls=pale&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

関連情報🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲

持続可能な日本の農林業を映画から問うジャーナリスト、川上敬二郎氏
『Media is Hope AWARD 2024』受賞(上半期・個人賞)


向かって一番左が個人賞を受賞したTBS報道ディレクター・フリージャーナリスト川上敬二郎氏

「Media is Hope AWARD」は気候変動やSDGsといった社会課題解決へ貢献するメディア /
ジャーナリストの功績を讃える賞。2024年上半期の個人賞は川上敬二郎氏の手に。

公式リリース
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000011.000128060.html

表彰理由】TBS報道特集やNews23のディレクターとして、農業、いじめ、貧困など、幅広く
情報発信。さらに、ドキュメンタリー映画「サステナ・フォレスト~森の国の守り人たち~」で
「日本の森が放置されている現状と問題点」を丁寧に紐解き、取材対象も幅広く、気候変動含め
様々な視点から課題を捉えることができる内容と評価し、さらに今後日本の林業が進むべき道、
解決策があることも明確に提示され希望が持てるとして表彰されました。
主催:一般社団法人 Media is Hope(一般財団法人 地球・人間環境フォーラム 内)
https://media-is-hope.org/

サステナ・フォレスト~森の国の守り人たち~」予告編
https://youtu.be/_dwfo0IAod8?si=Uof0hknMKp4O_53m

*本編は動画配信サービス U-NEXT でも視聴することが出来ます。

川上氏はこれまで報道番組製作のかたわら、日本の農業と森をテーマに2度映画を製作・発表し、
また児童のいじめ問題についても著書を出し、社会に問題を問うてきました。最初の映画を作り
始めた頃からナラ枯れに疑問を持ち当会と接触、当メルマガでも上映告知を度々案内しました。
この度も受賞直後にご本人より報告がありました。誠におめでとうございます。今後も日本の森
と農業について問題・解決を取り上げ、社会と共有する活動に期待しています。

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森の駅推進協議会は、日本の森林産業の応援と、森と樹木の文化育成を目指し、
下記の活動を行っています。皆様の生活とお仕事にお役立て下さい。

1「森の駅発メルマガ」発行:
日本の森と国産木材が生む健康な環境、良質な文化情報、社会的関心等を紹介、毎月1回発行。
当会のフォーラム、研究会のお知らせもします。お問合せ:happysun9@gmail.com

2「健康住宅/森の駅発」活動:
住まいづくりのプロが、日本の森を元気にし住む人を元気にする、「森に愛される家」を普及。
新製品の紹介、展示会への出展、イベント開催などをメルマガでお知らせします。
https://moriniaisareruie.jimdofree.com/

3「市民フォーラム」開催:
日本の森から生まれる環境や文化を広範な視点で企画・開催。詳細はメルマガで告知します。

4 メルマガ・バックナンバー:
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過去の実績や森の駅推進議会の趣旨などについては、森の駅発のHPをご覧下さい。