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森の駅発メルマガ No.180
2024 August 葉月 旧暦は8月から秋。葉月は葉落ち月の意味だったそうです。今年の「立秋」は 8月7日。
日本の自然災害カレンダー/8月は豪雨と長雨。ほぼ毎年、各地で被害があります。(/h=1時間当たり)
2022年8月3日~中旬「令和4年8月3日からの大雨」(気象庁命名)東北と北陸で初の線状降水帯。
山形と新潟に「大雨特別警報」道路・鉄道寸断、人家孤立。新潟県関川村の降水量149mm /h。
青森県津軽地方と秋田県北部に「緊急安全確保」発令(9日)。青森県の家屋400棟以上全半壊。
政府は、青森・山形・新潟・石川・福井5県35市町村の甚大な被害に、「災害救助法」を適用。
2021年8月11日~19日「令和3年8月の停滞前線による大雨」全国68地点で史上1位の雨量(72時間)。
期間降水量1,200mm超の豪雨。11日気象庁は「梅雨末期同様の大雨の怖れ」、12日~14日に九州北部・
中国地方へ「顕著な大雨」情報を9回反復、佐賀・長崎・福岡・広島県に「大雨特別警報」を出すものの、
避難が遅れ、死者13名、負傷17名。家屋全半壊1,358棟。
2019年8月27日~28日「令和元年九州北部大雨」九州北部の前線が活発化100mm/hの断続的豪雨。
福岡、佐賀、長崎3県に28日未明「大雨特別警報」、市町村の87万人以上に「避難指示(緊急)」
各地で河川氾濫、道路冠水、住宅浸水、救助ボート出動。佐賀と福岡で車が水路に落ち4人死亡。
2017年7月20日~8月9日「平成29年台風5号」期間記録2位の台風(発生から19日間)。
7月20日南鳥島近海で台風発生。日本南海を周回し小笠原諸島付近で南転、九州南海上で針路北東に変化、
複雑な進路を経て8月7日和歌山県北部上陸。死亡3人、負傷50人、家屋浸水・損壊約200棟。
2016年8月20日~21日「平成28年北海道常呂川・湧別川水害」日本の東海で発生した台風11号。
21日23時過ぎ北海道釧路市付近上陸。停滞前線と重なり、北海道東部に降水量300mm /72hの豪雨。
北見市の常呂川が氾濫。2人死亡、浸水・損壊家屋3,700棟以上。
2016年8月30日「平成28年台風10号」初めて太平洋から東北へ上陸(岩手県大船渡)した台風。
200mm/24hの豪雨。避難情報が行動に結びつかず、高齢者福祉施設で9人死亡、死者行方不明合計27人。
以後「避難準備情報」が「避難準備・高齢者等避難開始」「避難指示」が「避難指示(緊急)」になる。
2014年7月30日~8月26日「平成26年8月豪雨」7/30~8/11は台風11・12号、8/15~20は、
停滞前線に暖かく湿った空気が流れ込み、全国に長期の大雨。死者91人、浸水損壊家屋2万棟以上。
特に広島市は8月20日未明の降水量100mm超 /hの豪雨で土砂災害、77人死亡。
2014年8月20日「平成26年広島市大規模土砂災害」未明に広島市安佐北区・南区で大規模土砂災害発生。
3時間に217.5mmの集中豪雨で、安佐北区と安佐南区に土石流が同時多発発生、山麓の住宅地を襲う。
発災後の避難勧告など、行政対応の遅れもあり深夜就寝中の住宅に土砂流入、74人死亡。
2012年8月14日「平成24年京都府南部豪雨」停滞前線に湿った空気が流れ、宇治市で78mm /h、八幡市
と城陽市で90mm /hの大雨。1人死亡、1人行方不明、住宅3千棟以上浸水損壊。京都全線運転見合わせ。
2009年8月9日「平成21年台風9号」兵庫県で24時間に327㎜の豪雨。死者・行方不明20人、家屋被害
1,700棟以上。夜間避難の死亡多発、以後、移動困難な夜は住家の2階へ避難する「垂直避難」を推奨。
目 次 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲
・山小屋通信「虹の絵」大森 明
・青ヒバの会「住まいのカタチ8章 - 第7章」市川 皓一
・美術コラム「北斎の『相州七里濱』」戸田 吉彦
・関連情報「急増する、循環葬・樹木葬・自然葬の現在」
山小屋通信🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲
「虹の絵」大森 明(森の駅発メルマガ編集・発行)
休日に遊び来る小さい子供たちと一緒に絵を描く機会がよくある。
白い紙・クレヨン・色鉛筆を出す。
さあ、何でも好きなように描こうという感じで描く。
最近遊びに来たのは男の子と女の子で、それぞれ遊びに来た日は異なるが、
面白いことに2人とも虹の絵を描いていた。
そのとき当方は花や乗物の絵を描いており、虹の絵は描いていない。
なぜ虹の絵を描くのだろうかと気になった。
虹の絵が子供たちの間で大流行しているわけではなさそうだ。
ネットで調べてみたら、子供が虹の絵を描くときは、
気持が前向きになっている、希望を持っている、体調が良い、という説が載っていた。
その時の子供の元気で明るい様子を思い出して、なるほどと思った。
ふと当方もかなり前に虹の絵を描いたのを思い出した。
描いたのは2つ折りの紙を開くと虹の絵が飛び出すという仕掛け絵だが、
描いたきっかけは昔から愛聴している音楽バンド(ロック系)の
アルバムジャケットに触発されたもの。
ものすごく気持ちが前向きだったり、人生に大きな希望を持ったりして
描いた訳ではないのは残念だが、出来栄えには満足している。
<青ヒバの会>🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲 🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲🌲
「住まいのカタチ8章」市川 皓一(一級建築士)
第7章 耐震耐久住宅のコスト
「青ヒバの家」を造り始めて40年。過去の建物の耐震基準は、関東大震災の震度と被災状況を
鑑みて立法化されていた。そこに阪神淡路大震災が発生した。TVニュースに写し出される情景は
衝撃的だった。その後新潟県中越地震があり、7~8年後には、東日本大震災の3.11地震が発生、
福島県沖が震源のマグニチュード9の大揺れで、続いて熊本が地震に見舞われ、そして今年正月に
奥能登が地震に襲われました。日本列島はどこに居住しても安心安全を得られません。
地震波はマグニチュードや震度で表記されても、被災状況から分析すると現象は全て異なり、
全て違うタイプです。新工法の耐震技術は次々に開発され、基準法も改正されていますが、実際
の建物に適用され有効に機能するか否かは、実験証明以外ありません。私達も数年前に木造軸組
工法で新工法を提唱するため、シェルター『命守(いのちもり)』を開発し、林野庁の補助金を得て
実証実験をしました。結果は阪神淡路大震災クラスの揺れが連続4回来ても大丈夫でした。
無垢の木材の素材としての引っ張り強度は軟鋼の4.5倍。
木材は直行一方向に繊維が通り、格段に強力な素材です。まして青ヒバは腐りにくく、耐久性が
他の素材と比べ強度が高く安心できます。伝統の木造技術は匠の技による「継手」、「仕口」を
生かした技法で、古民家に『普請帖』が残されていれば何度も木材を再利用でき、リサイクル可能
なエコロジーに優れた構法です。しかし熊本地震の被災地では、本震前の前震や本震後の余震が
あると「継手」や「仕口」にゆるみが生じ、保有耐力が減衰し破壊することが立証されます。
だが私は被災地の現場で、古寺の山門が1.0mも飛び跳ねても破壊されず、無事であった情景を
見ました。また京都大学が、利休の茶室「待庵」を模した原寸モデルを造り、振動台実験をした
折にも同様の結果が出て、礎石から位置がズレただけで破壊されなかったという報告も、併せて
知りました。つまり現代住宅の土台敷工法でなく、「柱勝ち」の架構法を採用していれば横揺れ
にも直下型地震にも木造軸組は強いと、確信を得たのです。
左:普請帖 右:柱勝ちの架構法
家のコストを坪単価で表現する風潮は、「青ヒバの家」には当てはまらない。
親子三代100年の単位に、軸組の躯体を考慮すれば500年の家は可能です。家づくりを三つの
部位に分け、基壇・軸組・屋根のスケルトン構造を、屋内の装備とを分離していれば、住み手が
機能をリファインできますから、坪単価が数倍になっても安い買い物になります。すでに海外は
伝統的に古い木造の家ほど価値が高くなり、評価の対象とします。
青森ヒバの森
特に日本は森林資源の豊富な日本列島の地理的条件を鑑み、木材の強度を生かした家づくりを
これからも維持しなければいけません。木軸構法を正しく捕まえれば、30年ごとに建替える必要
はなく、鉄やアルミに依存した工業化住宅よりも、住み手のライフスタイルに柔軟に対応出来、
300年以上の耐久性を誇る家作りは十分可能なのです。家の価値を単に、建設時の坪単価で評価
するのはやめるべきなのです。さらに地球環境を考えるとグリーンエコロジーは無視できません。
国にとっては工業化を進め、成長経済を維持する事で税収を上げたい。だが、コンクリート、
アルミ、プラスチック等の非木材系住宅は、素材生産段階で大量の熱源を必要とし、二酸化炭素
も大量に排出します。やはり森林を育て空気を浄化し、炭素の発生量を抑える木の家が、未来の
住宅の基本であることが、ますます見えてきています。
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北斎の『相州七里濱 』 戸田 吉彦(日本美術アカデミー理事)
葛飾北斎「冨嶽三十六景」『相州七里濱』(そうしゅうしちりはま)木版画 1830年頃 アムステルダム国立美術館蔵
『相州七里濱』は、藍摺(あいずり)と呼ばれる1枚で、藍摺とはご覧の通り青一色の摺物です。
しかし浮世絵版画は墨一色から始まり色が増え、派手さを錦絵と呼び喜んで来たので謎ですが、
「富嶽三十六景」46枚中10景もあります。、その背景にはドイツ人が発見しイギリスで汎用化、
中国経由で日本に来た化学合成顔料、日本でベロ藍と呼んだプルシャンブルーの登場があります。
植物原料の退色し易い染料も中東の貴石を砕く水に溶けない顔料も、木版の摺には不向きです。
しかしベロ藍は染料同様水に溶け色の変化が滑らかで美しく、顔料同様退色せず色鮮やかです。
これを知り北斎は「冨嶽三十六景」で青の可能性を追求しました。
以後、広重も名所絵に活用し、青のぼかし表現は浮世絵版画になくてはならぬ技法となります。
以上は拙書『北斎のデザイン』で詳しく説明しましたが、『相州七里濱』について紙数の制限上
割愛せざるを得なかった解説を今回ご紹介し、補足の機会とできれば幸いと考えています。
*「ベロ藍」平賀源内が紹介、肉筆画は伊藤若冲、浮世絵版画は北斎に私淑した渓斎英泉が最初の使用と言われます。
*「富嶽三十六景の藍摺」藍摺は初摺など初期に集中し、後に(北齋死後か?)紅色を加え派手好みに変わります。
先ず夏の海浜と積雲を描く『相州七里濱』の絵画技法は、背後の三浦丘陵から見下ろす視点を
選び、地質学で断層が有名な海岸のダイナミックな海蝕崖を捉える構図で、視野外の手前から主題
の岩礁へ導く遠近効果と、富士と夏雲を際立たせる空にベロ藍の美しい階調が使われています。
箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ(源実朝/1192-1219)
「相州」は相模国の別称で、今の神奈川県の川崎市と横浜市の大部分を除く全域です。相模湾に
面した「七里ヶ浜」は、今やサーフィンのメッカですが、以前は別荘が並ぶ保養地で、さらに昔は
鎌倉の海ゆえ源義経や新田義貞ら武将の舞台でした。NHK歴史大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも
紹介されたのでご記憶にあるかと思います。歌舞伎でも、『白浪五人男』の弁天小僧菊之助が、
「浜の真砂と五右衛門が、歌に残した盗っ人の、種は尽きねえ七里ヶ浜」と啖呵を切ったように、
「七里ケ浜」の名前は沖の江ノ島の弁天神社共々、江戸の庶民にもよく知られた場所でした。
*『白浪五人男』は演目『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうしはなのにしきえ)の通称。
源実朝は昨年11月の当コラムでも紹介しましたが、鶴岡八幡宮の大銀杏の陰に隠れた公暁の、
刃に倒れた鎌倉幕府三代将軍で、藤原定家を師と仰ぐ歌人でもあり相模の海をよく詠みました。
そして北斎は、実朝の歌を誦じながら絵を描いたかと思うほど、和歌もよく学んでいたようです。
それというのは、「冨嶽三十六景」の3年後、北斎は百人一首を絵解きする横大判の錦絵揃物、
「百人一首姥ヶ絵説」、続いて和漢の歌人に題材を取った長大判の錦絵揃物、「詩歌写真鏡」を
発表しているからです。北斎は師の勝川春章の死後勝川派を離れ、版元蔦屋重三郎の世話で当時
流行の狂歌の世界に入り、狂歌絵本や狂歌摺物に絵を添える仕事を生涯続けました。歌が分から
なければ絵は描けず、本歌取りが多い狂歌を追えば、同じ三十一文字の和歌も詳しくなります。
大海の 磯もとどろに 寄する波 破れて砕けて 裂けて散るかも(金槐和歌集掲載/源実朝)
また『相州七里濱』に描かれた海へ突き出る岬は、七里ヶ浜の何処かと疑問が湧くと思います。
「七里ヶ浜」の名前は、「稲村ヶ崎と小動岬(こゆるぎみさき)の間が七里」が由来との説があり、
「小動岬」とは画中で富士の前に伸びる樹木が生い茂る岬で、左に位置する島は江ノ島です。
岬には古くから社があり、源頼朝が伊豆で旗揚げ以来の猛将、佐々木盛綱の創建と文書に残り、
文治年間(1185-90)頼朝勧請の江ノ島神社を詣でた帰途、岬の上で風がなく揺れる岬の松を見て
「天女遊戯の霊木」と覚え、己が武運の報恩に、故郷近江八王子社を勧請した由緒ある岬です。
吾妻鑑によれば、盛綱は寿永3年12月(1184)源範頼の軍に従い平家追討の際、備前の国児島において
霊験を得て僅か六騎にて平行盛を追伐し無事鎌倉に凱旋した。盛綱は神恩報賽のため守護神である父祖伝来
の領国、近江の八王子宮を新たに勧請すべくその地をさがしもとめていたが、ある日江ノ島弁財天に参詣の
途次、小動山に登り大いにその風光を賞せられ勧請の地と定められた。相模風土記によれば八王子宮縁起を
ひき、「文治年中佐々木盛綱当山に詣で、老松の辺りに到るに、この松平日風なきに枝葉靡き動く、その妙
音琴瑟の如し、天女遊戯の霊木なり。」とあり、この霊地を神域として八王子宮を勧請したのが当社の期限
である。(神奈川県神社庁ウェブサイトより)
幕末の嘉永六年(1853)アメリカ合衆国海軍提督ペリーが艦隊(黒船)を率いて浦賀へ入港。
翌年横浜村で日米和親条約が締結され、外国船を打ち払うため小動岬に築いた見張りと砲台は、
使われることなく撤去されます。盛綱の八王子社は明治元年に小動神社と名前を変え今も続き、
一方江戸時代まであったといわれる「こゆるぎの松」は、明治時代に姿を消しました。さらに、
昭和になると小動岬下の畳岩で、太宰治が睡眠薬を服用、心中未遂(1929)を起し世間の関心を
集めます。当時太宰は学生でしたが、これを題材に5年後小説(「道化の華」)を書き、その内容は
後の「人間失格」を連想させ、太宰が担ぎ込まれた結核療養所は今も病院として貢献しています。
『相州七里濱』は小動岬を選んだ事で、偶然にも日本の劇的な変化を反映する事になります。
その前夜、袂ヶ浦で心中があつた。一緒に身を投げたのに、男は、歸帆の漁船に引きあげられ、命をとり
とめた。けれども女のからだは、見つからぬのであつた。その女のひとを搜しに半鐘をながいこと烈しく鳴
らして村の消防手どものいく艘もいく艘もつぎつぎと漁船を沖へ乘り出して行く掛聲を、三人は、胸とどろ
かせて聞いてゐた。漁船のともす赤い火影が、終夜、江の島の岸を彷徨うた。(青空文庫「道化の華」抜粋)
底本:「太宰治全集2」筑摩書房 1998(平成10)年5月25日初版第1刷発行 入力:赤木孝之 校正:小林繁雄
1999年7月13日公開 2016年2月23日修正 青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
今月の樹木、松(マツ)は昔から防風林・防潮林として全国の浜に植えられ、日本三景(松島・
宮島・天の橋立)のように日本の美しい景観を作りました。冬も緑鮮やかな姿は吉祥と尊ばれ、
年初の慶事を飾ります。マツ科はトド松やエゾ松、カラ松などモミ属も含みますが、所謂、松と
呼ぶマツ属は9種類が北半球に分布し、日本は浜辺に多い黒松(クロマツ・男松)、全国で見られる
赤松(アカマツ・女松)、庭木に選ばれる五葉松(ゴヨウマツ)、琉球松(リュウキュウマツ)、蝦夷松(エ
ゾマツ)が固有種です。育てやすく丈夫で枝も自在にしやすいので、盆栽で人気の高い木です。
葛飾北斎が勝川派を離れた38歳ごろ蔦屋重三郎が出した豪華な狂歌絵本「柳の糸」の絵師陣に参加、宗理の名前
で描いた「江島春望」です。七里ヶ浜稲村ヶ崎の方から江の島越しに富士を見る構図です。東京国立博物館蔵
参考
*「国土地理院地図/七里ヶ浜」(北緯35度18分23秒 東経139度30分34秒)
https://maps.gsi.go.jp/#15/35.309633/139.516303/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
*「北斎のデザイン」(¥2,200)紀伊国屋書店 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784798167626
AMAZON https://www.amazon.co.jp/北斎のデザイン-冨嶽三十六景から北斎漫画までデザイン視点で読み解く北斎の至宝-戸田-吉彦/dp/4798167622
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